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【報告】劇場トーク「障害者と戦争」(Part.2)

劇場トークのご報告、第2弾をお届けします。

【7月9日(土)午後の回】
テーマ;「障害者と戦争」
ゲスト;藤井克徳さん(日本障害者協議会代表)、海老原宏美さん(出演者)

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(海老原宏美さん);
初日にお越し下さりどうもありがとうございます。映画に出演させてもらいました海老原です。(拍手)
きょうは特別ゲストをお招きしています。日本障害者協議会代表の藤井克徳さんです。

(藤井克徳さん);
きょう、この映画を観るのが2度目なのですが、2度目もまた新鮮でした。”障害”とはなんだろうとか、社会の本質を考えさせられる映画だと思いました。作品のなかに、「自立」という言葉が出てきましたね。普通「自立」っていうのは辞書を引きますと、人の力に頼らず自分で立つ、というのが基本ですね。この映画に通底しているところにも「自立」っていうのがあると思うんです。
「立つ」という字には、元々いろんな使い方がある。「匂いが立つ」「霧が立つ」「音が立つ」とか、これどういうことでしょうね。匂いなんか立ちますかね。霧や音が立ちますか。「立つ」というのは何かと調べてみますと、”だんだん見えてくる”、”なかったものが見えてくる”ということなんですね。これに「自ら」、という字をつけると「だんだん自分らしさが見えてくる」という風に解釈できる。そうすると自立とは「人にたよらず自分で立つ」じゃなくて、「自分らしさ」が大事じゃないかなと、このことを新居くんがこの映画を通して懸命に言ってる。
”障害”というのは本人に属するだけではなくて、むしろ本人を取り巻く関係のなかで重くもなれば軽くもなる。障害は社会の側に潜んでると捉えてる。そうすると「障害が重い」、という言い方もやめた方がいいんですね。むしろ「ニーズが多い人」といった方がわかりやすい。それは私が考えたことじゃなくて、私が養護学校の教員をやってました30年前、「お母さん、A子ちゃん障害が重くて」と言った時、「先生”重い”ってやめて。”ニーズが多い”と言ってください」と言われたのが発端。「自立とは」「重度とは」ということを、作品を通して感じてます。

(海老原);
そうすると、「尊厳死の対象になるんじゃないか」、という議論は”社会の側にとってその人の存在がどうなのか”ということになりますよね。新居くんが持っているニーズを社会が満たすことができれば、彼はどんどん自立できるだろうし、彼らしさが引き出していける。

(藤井);
尊厳死、または安楽死などと言われる問題が日本の国会で顔を出していたり、オランダ、ベルギーでは現に法律ができてる。こういう考え方が、実は戦争中、もっとも表に出るんです。ドイツのナチス時代に、大変なことが起こった。障害を持った人がドイツ国内だけで20万人、ドイツが占領してる国もあわせると30万人もが殺された。その時の名目が、「価値なき命の抹殺の容認」だった。”価値なき命”とは何かというと、働けないもの、もっというと兵隊になれないもの。それを精神科医を中心とする医師が判定した。「T4作戦」ですね。
日本でも戦時中、都立松沢病院で「価値なきものに食事は必要ない」と”飢餓殺”ということが普通に行われた。いまは平時と言われてる。でも戦時という極限状況では、”尊厳死”なんてことが一気に出てくる。じゃあもし”価値なき命”として障害者を全滅させるとどうなるでしょう。今度は次の”価値なき命”を探すんです。高齢者であったり、病気の子どもであったり、病気の女性であったり。つまり価値なきもの探しの連鎖が際限なくはじまる。尊厳死問題は社会のありようを問うている。

(海老原);
私は去年2週間、アメリカに研修に行く機会があったんです。アメリカって聞くと先進国の代表みたいなイメージがあって、障害者の自立生活運動もアメリカではじまった。きっとアメリカは先進国だから、たくさんの呼吸器ユーザーが地域生活してるだろうと思ってた。自立生活センターの全米集会があって800人~1,000人くらいが集まってセミナーをするというので、ウキウキしながら行った。でも呼吸器ユーザーはほとんどいなかった。「おかしいな」と思って、各センターのリーダーに「呼吸器ユーザーはどこ?」と聞いたら「どこにいるかわからない」と。「地域にも見かけないし、自分たちの運動はまだそこまでカバーしてない」と言われたんです。実際どこにいるかというと、やっぱり、病院にいるんです。もしくは、生きてない。日本は国民皆保険ですが、アメリカは保険制度がよくない。いい保険に入れば呼吸器が使えるけれど、呼吸器ユーザーは月に6~7万円の保険料を払ってる。そうするとお金持ちしか入れない。
アメリカでは「働いてる人が頑張ってる人」という価値観が根強い。ひとりで生活できる人、周りに迷惑かけない人、自分の力で生きていける人が価値が高い人、と言われる。そうすると、ほぼ24時間介助が必要な重度障害者の価値っていうのは、アメリカではすごく低くて、そう思うと日本はまだまだ捨てたもんじゃないな、という風に感じたんです。

(藤井);
私も海老原さんと同じように、海外に行って思うことは、海外を見るというよりも、日本のいいところ、悪いところが見えてくるという感じ。権利というのは与えられた瞬間にたちまち錆び付く。自分から獲得しつづける、その過程にきっと、価値は薄まらずに担保されていくんだろうと思う。
初めて障害分野の世界共通ルールに、「障害者権利条約」というものができた。50ヶ条あるなかの、第17番目に最も短い1行半の言葉がある。
「障害者についてはそのままの状態で尊重すること」、と。
私は、全く目が見えないんです。光を6年前に失って、20年ほど前に文字と決別した。文字と決別した日のことを覚えているんです。朝起きたら、新聞の大活字が曇って、見えなかった。だんだん悪くなってたんで、いつかこの日が来るだろうと覚悟してたんですが、いざその日を迎えるとショックでね、数日間は、不安が頭の中をぐるぐる巡ってた。それは将来どうなるのか、仕事ができなくなるんじゃないかという不安。でも、もう一つ、頭をもたげてきた感情がある。「私にはまだ、何か役割がある感じがする」。これが自分を奮い立たせた、原動力だったんですね。後でわかってくるんですけどね。まさに権利条約の「ありのまま」という意味が、新居くんでいうならば、すでに役割があるんですよね。その存在をさらに発展させて、「役割」をどういう風に感じるかということ。それはむしろ周りの責任だと。新居くんのあの生き様を、周りがどう磨きをかけて読み取るか、感じるか、という感度が大きく問われている。

(海老原);
彼がそこにいることで、周りの人がどう関わったらいいのかなと考えますよね。周りの人を考えさせている、ということがすごく大きな彼の社会的な役割なんじゃないかと感じます。ところで藤井さん、明日は選挙ですね。今の政権では”一億総活躍が大事”だって言われてますね。これ、どう考えたらいいでしょう。

(藤井);
さきほど言いました障害者権利条約ってのは、「いまの社会ってこれでいいんですか?」というイエローカードでもあるんですね。この何十年か、日本も世界もちょうど綱引きの綱をピンと張って、真ん中の赤いリボンが、なんとなく”屈強な男中心の社会”に引っ張られている。生産性だとか効率、スピードだとかが価値の基準になってしまっている。その、ピンと張った赤いリボンを”人間中心の、障害を持った人の実態や状況が中心の社会”に取り返しましょうというのが権利条約なんですね。
”総活躍”って言われても、競争力のある人に価値があるという風に煽られてる感じがして。本当は「総カツカツ社会」じゃないかと思う。あきらかに今の大きい流れがね、個々人の客室を見るといい面があるんだけど、肝心の船の向いてる進路が、氷山に向かっている。船の進路は選挙で決めるしかないので、明日の選挙は氷山にぶつかることを避けることが大事だと、個人的には思ってます。

(海老原);
”活躍”ってなんだと。国が求める国民になることではない。自分の命を活かしているなとか、自分の存在を社会に参加させていること、生きてて良かったと思えること、そういうことが活躍じゃないか。さっき「自立とは自分らしさが見えてくること」だと、仰っててなるほどそういうことかと感じたのですが、ひとりひとり、自分らしさが自分で見えてくる。そういう国にしていきたいですね。

(藤井);
国際障害者年に関連した国連決議の一節に「障害者を締め出す社会は弱くもろい」という一文があるんです。新居くんや渡部さん、海老原さんのような人が希望を持って暮らしていると。それこそがしなやかで本当の意味で強靭な社会だと思う。この映画はひとつのバロメーターで、これがどれくらい地域で広がっていくか。世直しのツールになると思いますので「うちの地域でも」、「うちの職場でも」、とぜひ広めてほしいと思います。

以上

(要点採録/文責 宍戸大裕)

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