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【報告】劇場トーク「親の自立・子の自立(1回戦)」(Part.9)

劇場トークのご報告、第9弾をお届けします。

【7月17日(日)】

テーマ;「親の自立・子の自立(1回戦)」
ゲスト;海老原けえ子さん(宏美さん母)、海老原宏美さん(出演者)、宍戸大裕監督

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(宍戸大裕)
みなさんこんにちは。今日は本当に多くの方に集まって頂いて、ありがとうございます。監督をしました宍戸と申します。よろしくお願いします。(拍手)

(海老原宏美)
みなさんこんにちは。今日はお集まり頂き…すごいいっぱいですね!(笑)ありがとうございます。映画に出させて頂きました海老原宏美です。今日はなんと、母子対決…対決じゃないや(一同笑)対談か。第一回戦ということで。なかなかこんな機会はないんですけれども、自由にやらせていただきたいと思います。よろしくお願いします(拍手)。

(海老原けえ子)
初めまして。海老原けえ子と申します。宏美の母親で、通称「スパルタ母親」と呼ばれています(一同笑)宜しくお願いします(拍手)。

(宍戸)
僕はリングの仲裁役、レフェリーで(笑)。基本は二人で進めてもらおうと思ってます。
なんか海老原さん、さっきお母さんといる時、いつもとちょっと調子が違うなという風に見てたんですけど。親の前では“娘”になってるんだなぁというか(笑)。

(宏美)
「なんだかなぁ~」っていう感じ(笑)。何話そうかなぁみたいな。普通の親子の感じのつもりなので、「このトーク、何が面白いのかな」とか(一同笑)何話したら面白くなるのかなとモヤモヤしてます。

(宍戸)
どうやったらこういう風に育てられるのかな、という話も含めて、色々…。

(宏美)
「こういう風な」って、どういう風な?(一同笑)

(宍戸)
あの…こういう風な(笑)。今日、三つくらい、聞きたいと思っていたことがあって。
学校時代のこと、自立前のこと、それから今の、親の自立・子の自立っていう話を聞いていきたいなと思います。
新居優太郎君が中学校に一生懸命入ろうとして、入って、卒業して、今高校に行っているという状況ですね。僕は中学3年生から取材してるんですけど、実は中学1年生の時にすごい闘いを、親子が学校と演じていて。
普通学校へ入りたいと言った時に、中学校の校長先生はじめ教員に、無視されたそうなんです。入ってからですよ。全然関わってくれない。そういうしんどさを乗り越えて、ご飯なんか泣きながら、真理さん食べてたっていうような話も聞いて。でも中学2年から校長が代わって、担任も代わっていくうちに対応が変わってきたっていう。あの~ここに、こんな本がありまして(と言って『まぁ空気でも吸って』を出す)(笑)。
お持ちの方もいらっしゃると思いますけど、『まぁ、空気でも吸って』というお二人が共著された本なんですけど、その中に学校時代のことがたくさん書いてあります。やっぱり大変だった?

(けえ子)
優太郎君のお母さんの姿って、とってもダブりました。どんな風にダブったかというと、「悲しい」じゃなくって、「エライ!」っていう感じ。そして、自分ももっともっと若い時に、ああいう姿だったんだなって。映画を観たときに、すごく優太郎君のお母さんに共感しました。やっぱり優太郎君は、言葉も発せない、それから歩くことも出来ない。それから比べたら宏美は、おしゃべりすぎるぐらい。私にも対抗、社会にも向かって行けるっていう、力とか知恵とか、パワフルだし、色々な力を持ち合わせてるので、社会的存在としては割と、ニコッと笑っただけでも、認められるんですけど。優太郎君のように寝たきりで瞬き一つで、ものを判断するのがお父さんやお母さんや周りの人。本当に私が優太郎君のお母さんだったらどうだったんだろうな、とは思うけれども、恐らく同じことをしたと思ってます。
だからこれからもね、優太郎君とご両親の活躍をずっと追ってもらって、豊かに暮らしてほしいなと思っています。

(宍戸)
最近、宏美さんが小中学校時代の同級会に行ったら「お母さん元気?」って言われたと(笑)。

(宏美)
そうなんです。私もずっと普通校できたんですけど。小学校の時って、それは壮大な拒否にあって、闘って。無理矢理ねじこんで入ったっていう感じだったので、拒否にもあってたし、先生たちから差別もされてたし、無視もされてたし、隔離も区別もされてたんですよね。
でもそこで、どうにかこうにか巻き込んでうまくやってくんだ、っていうのを、母親がずっとやってきて。私はその頃、あんまり自分の意識としては無くて。「学校楽しいな、わ~い♪」っていう感じで見てたんですけど、母親は結構、闘っていて。頑張って毎日付き添ったりだとか、イベントの時に母親が出てきたりだとかしていたので、周りの子どもたちにとっては、私っていうよく分からない存在と自分たちを繋ぐ、ちょうど真ん中にいる繋ぎ役みたいな人だったんですよね。それですごく印象に残っているみたいで。
同窓会にこの間、二十何年ぶりに参加する機会があったんですけど、「やー、みんな元気?」って言ったら、「わー、ひーちゃん元気?」って言った後に必ず、「お母さんどうしてる?」って言ってたんですよ(一同笑)。「あのお母さん、どうなった?」みたいな(笑)。私と母親っていうのが小中学校の時はセットだったんだろうなって感じがします。で、私、5歳下の弟がいて、登校する時に、2歳の弟が私のランドセルしょって、母親は私をおんぶして、階段上がる時にうしろから四つん這いでランドセルしょった幼児が階段を登ってくるわけですよ(笑)。カメみたいに。それもすっごい印象に残ってたみたいで、「弟君は元気にしてるの?何してるの?」みたいな(笑)。
家族ぐるみでどうしてる?みたいな感じですごく聞かれますね。それが象徴的かなと思いますね。「ひーちゃん今なにやってんの?」の前に「お母さん元気にしてんの?」って聞かれるのがすごく象徴的だなと思いますね。

(宍戸)
学校側の拒否って、すごいですよね。「前例がない」、「他の子に迷惑かける」、「この子は施設とか病院とか養護学校のほうがいいんじゃないの」という、いろんな方向で…拒否されますよね。そこをこう、破り続けてきた(笑)。

(けえ子)
私もその頃本当に若かったので、今になって思うと、全部糧になってたので。苦しいことは嬉しいことに上塗りされちゃったので、とてもこう、「お涙ちょうだい」みたいな話っていうのがもう、あんまり思い出せないんですけど。ただね、ひとつだけ言うと、プールに入るのが一番、学校は危険ですよね。運動会とかプールとかいうのは、これはもうどう考えたってやってもらっちゃ困るわけですよね。ましてやもう担任は58歳の“おばあちゃん先生”で、目の前に退職金がぶらさがってるわけだから。この退職金を獲得するために絶対事故起こせないし。主任というものすごい格もありましたし。
「このお母さんとこの子どもを何とか自分の思い通りにさせないと」というのに、私が「いえ、プールも入ります」「いえ、運動会も出ます」ってやるもんだから、それはそれはホントに…「勝手にしなさい!!」とか言って(一同笑)。そのうち背中向けられちゃって(笑)。「ひろみちゃんの脇に誰も寄っちゃダメー!!」とか、もう金切声あげて。一番嫌だったのは、こういうお風呂のような大きいところに「尻洗い槽」っていうのがあるんですよ。

(宍戸)
塩素が入ってるあれですよね。

(けえ子)
ちょっと触るとヌルヌルってするような。そこでみんなお尻を洗ってから、プールに入るんです。もちろんこの子も、そこに入ったんです。で、いざプールに入ろうとしたら、「入っちゃったねー!!」って、また金切声で怒るんですよね。「いえ、この子はプールもやってるんで大丈夫ですよ」「私が入れますから」って。私はカナヅチなのに(一同笑)。ホントにカナヅチなのに、恥も知らずにやりましたけど。とにかくその「尻洗い槽で遊んでてください」って言うんですよ。なんか、バイキンマンみたいなね。「なんていうこと言うんだろうな」っていうのはありましたね。
それから小学校の入学式の時に、教室で担任を紹介されるわけですよね。その時に、今言った58歳のおばあちゃん先生なんですけれど、一番前に「海老原宏美」「海老原けえ子」っていう席があったんですよ。「なんでこんな席で勉強しなきゃならないんだろうな」って思ってたんですけど、最初からちょっと、先生と喧々囂々したくなくって、一か月我慢してたら、今度は「養護学校に行きませんか?」って。「おーう」と思いましたね。
一か月間というのは、普通学級に籍を置かなくてもいいんですって。養護学校の籍でも普通学級でもいいらしいんですよ。そういう制度が、その当時はあったんですね。「今だったら養護学校もありますよ!宏美さんのためにお母さんお父さん考えてもらえませんか?」って言うけど、それも私は拒否したんです。そこからはひどかったですけど。まぁそんなひどい話したら一週間かかるので、ちょっとその「尻洗い槽」だけ(笑)。あれはちょっと悲しかったので、話さしてもらいました。

(宍戸)
宏美さんはどうでした?

(宏美)
私に直接言ってくることは、ほとんど無かったですね。私はどっちかというと無視されてる感じ。いない…というか見ないようにされていて。全部母親に言っていたのかなと思いますね。ただやっぱり周りの子たちって、小学生1年生とか本当に純粋だから、「なんで歩かないの?」とか言うわけですよね。「なんでなの?」って純粋にいろんなこと聞いてくるし。「なんで参加しないの?」とか、結構言ってくるんですけど、そういうのを先生が抑えてたなっていうのを、ちょっと憶えています。
「なんかいつもお母さん、隣にいるな」って思ってて、嫌だったんですけど(笑)。小学校2年生くらいからね、母親がだんだんうまく仮病使いはじめて。朝、学校に送って車椅子に乗っけて教室の中に連れてきたら、「ちょっと今日は熱が40度あるから帰ります」なんて言って(一同笑)。そのまま帰って来ないんですよね。それで先生たちは一人残された車椅子の子を「どうしたもんか」ってなって、しょうがないから先生が介助するじゃないですか。そうすると、なんか「出来るなあ」みたいな。「そんな難しいことないんだ」「こんなもんでいいんだ」ってだんだん慣れてきた、っていうような感じがあったかなぁ。

(宍戸)
優太郎君の場合、中学校で周りに大人が三人、看護師と支援担任の先生とヘルパーの男性という感じでいつも周りにいるんですね。なので同級生となかなか関わりがなくて、ちょっと浮いた存在という風な感じに見えたんですけど、宏美さんはどうでした?

(けえ子)
あのね、顕著にそれはあらわれてました。例えばストーブって、昔は「ダルマ」って言うんでしょうかね、ダルマさんみたいな、そういうのが教室にあるんですけど、そこから2メートルぐらいに赤線貼られちゃうんですよね。で、娘はダルマストーブです。(一同笑)その、2メートルくらいに線を引かれちゃうんです。「そこから子どもが入ってはいけません」、ということなんですね。子どもたちも「ハイ!」と。先生がいる時はね笑いながら「ハイ!」って返事するんですね。で、先生がいない休み時間などを狙ってブワーっと寄ってきて(笑)。「ひーちゃん、ひーちゃん」とかね。「教えて」とか。絵がうまかったり、いろんな才能を持っていたので。「ひーちゃん教えて」とか「これどうすんの?」とか(一同笑)。

(宍戸)
その頃から人使いの片鱗が(笑)。

(けえ子)
そうですよ。その頃から「さん」って言ったことないよね(笑)。

(宏美)
そんなことないよ(一同笑)。

(けえ子)
女の人には「さん」使ってたけど、男の人は全部呼び捨て(笑)。こき使ってました(笑)。

(宏美)
この間の20何年ぶりの同窓会で会った男の子の友達が、小学校1、2年、同じクラスだった子なんだけどフェイスブックで繋がった時に「僕は昔ちっちゃい頃、もっとひーちゃんの車椅子押したかったんだ」っていう風に言ってきたんですよ。だからそれだけ離されてたっていうか、先生に「触るな」って言われてたのか。やっぱりそこまで残ってるのかなっていう感じがします。一緒に遊んだ気はしてたんだけど、やっぱ「車椅子を押しちゃダメ」とか「一緒におしゃべりするのはいいけど触っちゃダメ」というのはあったんだろうなーって。「あーそうか」っていう感じだったかな。

(宍戸)
僕、小学校時代のことを思い返すと、やっぱり特別支援学級みたいなのがあったんですね。「とちの木クラス」「けやきクラス」っていうような、まぁ自然の風物がつけられた名前で(笑)。だいたい、誰がそこにいるのか分かんないんですよ。今大人になって、障害のある人と関わるようになって、「あ、こういう人たちがいるんだ」って(笑)。

(宏美)
こういうのがいた~!って(笑)。

(宍戸)
こういうのがいた、って(笑)。そういう感じですよね。一緒に勉強したり一緒に仲間になりたいだけなのに、何故かそれを大人が拒否する。子どもが拒否してないのに大人が拒否して。子どもと親が闘い抜かないと、一緒にいることも出来ないっていう。それがなんというか、腹たつなぁって思うんですけどね。変えられないんですか、これは。

(宏美)
小学校の時、私は本当に自分で意識してなくて。その状況の何が問題かとか、そんなに分かってないわけですよね。私が自分から言いだすのは中学校になれてからで。中学校のあの思春期真っ只中で、一分一秒でも親と離れていたいわけですよ(一同笑)。だけど、そこでも行事に来るわけですよ。呼ばれて。もう絶対嫌だと思って。親が自然教室かなんかに来るぐらいだったら私は行かないって、担任に訴えたんですね。そしたら先生、困っちゃって。すぐに緊急職員会議が開かれて「海老原が行かないって言ってる」「どうしよう」ってなって、なんかいろいろ話し合ってくれて、中学校の女性の先生が「じゃあ入れ替わり立ち代わり、交代で介助しよう」っていう風になってくれたんですよね。
その二泊ぐらいだったか、自然教室も、校長先生がたまたま女性だったんですよ。おばちゃんだったんだけれども、校長先生まで総出でお風呂介助とかしてくれて。そういう意味では協力的だったのかなというのはありますね。自分から「こうしたい」とか「ああしたい」って言い出したのは中学校くらいかな。

(けえ子)
やっぱり、校長先生なんですよね。校長先生が「宏美さんから教えてもらいなさい」と職員全員に言ったらしいんですよ。その一言で、変わるんですよ。校長先生次第だなって思いますね。
それと、やっぱり障害を持っている子どもが普通学級にいるっていうことで、どれほど子どもたちが成長していくか。周りの子どもたちが。それから若いお母さんたちが。お母さんからも結構、バッシングを受けたんですよ。「なんで宏美さんだけ担任にフォローされたり介助されたりするんですか?」って。「なんで自分の子どもと一緒の教室にいるんですか?」っていうのは何人かから聞きました。でも「あなたのお子さん、すごい活き活きしてますよ」「あなたのお子さん、毎日来て見てください」「宏美がいることで、どれほどのことしてるか良く見て」って言ったら、そこでね、すごい剣幕で怒ってたお母さんが、その後は「海老原さん、海老原さん」とか言って(一同笑)。まぁ大分仲良しになりました。
それから成績が良くなるんです。これは間違いなく。どこの学年、3年生よりも2年生よりも、この子のいる学年のほうが、ダントツいいんですよ。本当にこれはね、私、声を大にして言おうと思うんですけれども、「障害者がいる」っていうことは、成績も伸びます。これは本当に、言いたいなと思ってます。そういう環境って大事だなって、私はすごく思ってます。

(宍戸)
パワフルですね(笑)。僕、海老原さんと会った時、ものすごいスパルタだなっていうのが印象に残ってて。お母さんと会った時、「あ、原因はこの人か」って(笑)、気づいて。そのスパルタのひとつが、高校一年生の時、学校に行く時に車で正門に宏美さんをドンと置いて、「じゃああとは自分でやりな」とおもむろに去っていくっていう。獅子は子どもを千尋の谷から落とすっていう。

(宏美)
獅子は子どもを正門に落とすっていう(一同笑)。車で送り迎えをしてもらっていて、学校の昇降口に車椅子が置いてあって、「じゃあ今日も行ってらっしゃい」って言って、シュッて帰る。私は昇降口に待っていて、生徒が登校してくるわけですよね。3学年で高校10クラスあったんで、ものすごい人数で、知らない人ばっかりなんですけど、前を通る人通る人を捕まえるんですね。「ちょっとすいません」「ちょっとすいません」って言って。「私の教室は三階なので、車椅子を運んでくれる人が必要なんです。ちょっと手伝ってもらっていいですか?」って言って、声を掛ける。で、4人いないと運べないので、最初一人捕まったら「ちょっと、あと3人すぐ捕まえるから待ってて」って言って、待たせといて(笑)。4人集めるわけなんですね。
で、「揃ったからじゃあ行きましょう」みたいになって、私の車椅子、こことここを持って、あの映画の中で小学生にやってもらってますね。あれと同じようなことをずっとやってきたんですね。私の教室はそこだから連れてってーって言って押してもらって、机のところにピットインしてもらって。今日使う教科書出してもらって。そこで「ありがとうございました」って言って、お別れするわけです。それを三年間、毎日やってたんですね。
外出する時も、「今日友達と映画観に行く」とか「買い物行く」っていう時も、最寄駅のロータリーにポイッと置かれて、「行ってらっしゃい」って(笑)。通行人のサラリーマンのおじさんとか買い物に来たおばさんとかを捕まえて、「ちょっとすいません、私、どこどこまで行きたいんで、いくらの切符買って来てもらえますか?」って言うんですよ。「車椅子の後に鞄かかってて、どこのポケットの中にどういうお財布が入ってるから、持ってって―!」って言って、切符買って来てもらったりするんですよね。階段も、その辺の人捕まえて上げてもらったりとかっていうのを私、「人サーフィン」って言うんですけど(笑)、その人サーフィンでずーっとやってきたんですね。
平気で置いてくので。それが私にとってはすごく普通で、「まぁこんなもんかなぁ~」って感じだったんですけど、社会に出て今、障害持った人の地域生活支援で相談とか受けてますけど、そんな親に会ったことないですよ。「なんだぁ~キツかったんじゃ~ん」と思って(一同笑)。今気づく、みたいな感じですよね。
でも、大変だったけどその時の経験があるからこそ、人の顔を見るのが得意になると言うか、「あの人はどうせ頼んでもやってくれないな」とか「この人はイケるな」とか、瞬時に分かるんですよ(笑)。そういう経験が、今の生活にはすごく活きてるなって思いますね。人使いが上手く荒くなる、っていう感じかな。

(宍戸)
平気で…ポイッと(笑)。

(けえ子)
いいえ、そんなことはありません!(笑)私は親です。すごく私は心配でした。心をどれほど鬼にしたか(一同笑)

(宍戸)
電信柱の陰から、こう、見てたんですか。

(けえ子)
電信柱に隠れたことはないんですけど、やっぱりね、私が脇にいたら何も出来ないんですよ。宏美も私に依存するでしょうし、私も宏美に依存してしまう。「かわいそう」っていう、ね。周りの方も、こんなちっちゃなおばあちゃんがウロウロしてたら、本当に「かわいそう」って思ってくれるんですよ。私、ちっちゃいので。やっぱり私がいないから、周りも寄りやすいんだと思うんですよ。これ、駆け引きですよ。
小学校のころから「子どもたちが先生」って思ってて。大人よりも子どもたちが答えを出す、っていうのを、私も学んだんですよね。子どもたちから。それで、この子をポンと置く。そうするとこの子も発信する。子どもたちもそこに寄って来る。そういうことをあえて信じられるか、親として。

(宏美)
なんかね、私はそうやって親が、小学校、中学校ぐらいまでついて外に出て。まぁ車で出かけることが多かったけれども、常に親が、誰かがついているという感じだったんですよね。で、高校ぐらいから、そうやってポンって置かれて出かけるようになったんですけど、その時すごく印象深かったのが、人を捕まえるのが大変とかそういうことではなくて、例えば電車に乗るって言った時に、駅員さんが私を見てしゃべるわけです。「どこ行くんですか?」「どちらまで?」っていうのを、私に聞いてくるんですよね。それがね、すごい新鮮だったんです。
親が付くと絶対、親に聞くんですね。今は介助者が付いてるんで介助者に聞くんですけど。「私が客じゃん」って思うんだけど、でも全然「いないもの」にされてる感じ、っていうのがあったんですよね。でもそれを、気づいてなかったんですよ。「そこに自分がいるのに、いないものにされてる」っていうことに、気づいてなかったんだけれども、一人で外に出るようになって、「あ、自分、ここにいていいんだな」っていうか、「自分がやっていくんだ」「自分が進めていくんだ」っていうことを実感できた、っていうのがすごく嬉しかったですね。
よく駅でね、ちっちゃい子がエレベーターのボタンを押したがったりとか、券売機のボタンを自分で押すんだ~ってギャーギャー言ってるの、あるじゃないですか。自分はやったことなかったんです。「自立をしよう」ってなって、24歳で自立の準備をしていくために、実家があった川崎から今住んでる東大和市まで週に二日かな、電車とバスを乗り継いで通ってたんですね。役所との交渉とか、家を探すとか、銀行口座を開設するため通ってたんですよ。立川駅からバスに乗って東大和に行くんですけど、南街入口っていうバス停で降りるんですよね。その時「降ります」っていう、あのピンポンっていうボタンがあるじゃないですか。あれ押すのがすごいドキドキして、「やったー!」みたいな(笑)。「押したー!」って思ってすごく嬉しくて。
「自分がここで降りるんだ」っていう意思表示を自分がまずして、それを受け止めてくれるバスの運転手がいて、すごい大げさかも知れないけど、障害者ってそういうことを全部、奪われてるんですよね。周りの人がやっちゃうんですよ。「この人はこうしたいんだけど」って言っちゃう、やっちゃう。だから私はそういう経験がなかったので、社会と繋がった感じっていうのかな、あのボタンで。すごく感動して、ニヤニヤしながら降りる、みたいな(一同笑)。
それ以来ずっとそのバス使ってるので、運転手さんはいま私が乗るとほとんどが「あ、南街入口ですね」って言って、押さなくても停まる(一同笑)。「いや、私は押したいんだよね~」みたいな(笑)。

(宍戸)
介助者でもある母親との関わりに悩んで、24歳で自立したって聞いたんですけど、「人質」だったっと言ってましたね。母親の人質?

(宏美)
障害者は誰でもそういう風に感じてる部分があると思いますよ。もう全ての生活の介助を家族にしてもらわなくちゃいけないから、機嫌そこねられないんですね。怒らせたらトイレ連れてってくれないとか(笑)。外食したいのに「もうあんたの面倒なんか見るか」とか言われて、いつでも顔色を見て、なんとなく気分が良さそうな時に頼むっていうのを、ずっとやってるわけですよ。
だから、そんなに親子喧嘩したことないし、多分反抗期がなかったし、いい子でいるっていうか、親子じゃない感じですよね。介助を「する人」と「される人」っていう関係でずっと来たのかな、っていう感じはするな。
勘違いしている障害者、いっぱいいると思いますよ。「それが自分たちの親子関係だ」って思っている人もいるかもしれないけど、そんなことなくて。ほんとに自分の体を人質に取られてるような感覚なんですよね。だから、ちっちゃいころから親と離れられる時間っていうのがすごい貴重で、ウキウキだったんですよ。「やったー!」みたいな。「お母さんと離れられる」っていうのが嬉しくてっていうのは憶えてるし自立した後、やっと親と離れたような感じっていうか、言いたいこと言える。「もう今日はお母さん帰ってくれればいい、めんどくさいからもう」とか、ケンカが出来るっていうのは、すごく健全な関係なんじゃないかな。
一人で暮らすっていうのは、ただ自分のことを全部自分でやるってことではなくて、そういうことも含めて、家族の関係が修復されるっていうか、正常化するための絶対的な条件なんじゃないかな、っていうのは感じますね。

(宍戸)
こんなこと言われてますけど(笑)

(けえ子)
私ね、本当にそうだと思います。自分に例えたら、そうだなと思うんですよ。30過ぎて、母親が、私の脇にいたら動けないですもんね。そういう意味では、本当に正常に育った親に対する子の言葉だと思うんです。でも、厳しいですね。娘から言われるのはね。現実に言われるのは厳しいし、やっぱり“心配してる”と思っちゃうんですよね。例えば今でも電話があると、「宏美!」って、未だに思っちゃうんです。もう15年も離れてるのに。この子が自立した時に、「お母さんも自立しなよ」って言われて。「自立するってことは、泣くんだよ。大変で泣くんだよ。そんな思いした?」とかって言われた時に、“母親”と思ってたんですけど、“海老原けえ子”っていう一人の人間として生きるのが、こんなにつらいとは思いませんでしたね。
子どもたちが巣立って三人ともいなくなった。それで自分が新たな人生を築けるのはすごく幸せなことのはずなのに、ものすごい苦しみました。やっぱり、母親では相当頑張ってきて、24歳ぐらいから50何歳まで、母親一本でやってきましたので、分かんないんですよね、社会が。
今は温泉だって行けるし、自分の食べたいものを自分で一番先に「これ食べる」って言えるし、洋服だって前は「いいのかな、宏美の買わなくて」とかって思いながら、自分を後回しにしてましたけど。本当に、温泉入った時も「私一人だけこんな幸せ味わってていいのかな、宏美も一緒に入れたいな」とかって、5年くらいは引きずってましたね。何をするのも「いいのかな」「バチあたらないかな」って、思ってたんですよ。
でも今、やっぱりこういう機会を与えられて、お母さんがウザったくってって(笑)、まぁ、前々からちょっとウザったいって思われていることは感じてはいたんですけど、でも言葉でね、言ってもらえて。良かったなと思ってます。

(宍戸)
…どうですか?

(宏美)
ははは。あの~何ていうのかな。よくね、障害を持った子ども、子どもって言っても別に小さくないですよ、大きくなっても子どもは子どもだけれども、その子を「自分が倒れる限界まで責任持って面倒見よう」みたいな親って、今でも沢山いるんですよ。「心配だ」とか「自分が手離しちゃったら危ないことが起きるんじゃないか」とか言って、ずーっとついてる親がいるんですけど、何ていうのかな。子ども、当事者としてはね、「自分のために親が人生を犠牲にした」って思われるのって、一番しんどいんですよね。だから自由にしてほしいし、自分が生きたいように生きてほしい。
20歳くらいまでは親の保護責任みたいなものがあると思うので、ちゃんとした親業をやってほしいと思うんですけど、そっからはもう離してしまえと。「知るか」って。「自分で生きなさい」っていう風に言っていいんじゃないのって。それ普通の親と同じようにしていいんじゃないのって、すごく思うんですよね。
自分の親が自分の人生を楽しんでくれたりとか、趣味をガンガンやるだとか、本当に日がな一日マンドリン弾いてますからね(笑)。そういうことをやってくれた方が子どもとしてはすごく幸せって思えるので。母親って「役割」でしかないですからね。母親という人間がいるんじゃなくて、母親の役割を誰がするかっていうことだと思うんですよね。その役割が終わったら次の役割にっていう風に進んでいくことが大事かなと思います。マンドリンの演奏会が終わって、打ち上げに行って飲んだくれて、「電車ない」とか言ってうちに泊まる(一同笑)。それと年末年始ぐらいしか来ないですからね。それぐらいがすごくいいんじゃないかなと思っています。お互いに自由。

(宍戸)
けえ子さん。

(けえ子)
はい。宏美の上にも男の子がいて、下にも男の子がいて、俗にいう健常者です。五体満足です。で、今語ってることは普通の子にもおんなじこと言えると思うんですよね。
障害のある子を上手く育てたなんて、ちっとも思ってないです。なんていうかな。三人を同じ思いで育てた。どんな子でも私から生まれた子は無駄な人間にしない、というのは、宣告されたときの私の思いでしたから。きっとどんな子でも、社会には存在があっていいと思います。そんな信念で育ててきたかなと。今、一人の人間として生きていられるっていうのは本当に、ご褒美だなと思っています。

(宍戸)
…語りつくせない思いが、ここに書いてあります(と言って『まぁ空気でも吸って』を出す)(一同笑)。なんで僕が販売員に(笑)話は尽きませんが、時間がきてしまいました。最後にけえ子さんが書かれた「知識より知恵」というところを、読ませていただきます。

「知識より知恵」

「できないことは、誰にでもある。
できないことは、恥ずかしいことではない。
できないことは、特別なことではない。
できないことは、勇気をもつことである。
できないから、支え合える。
できないから、声を出せる。
できないから、夢をもてる。
できないから、知恵が生まれる。
できないことから、出発。
できないことを「できない」と、言えることのほうが、
自立しているような気がする。」(拍手)

今日の一回戦は、ジャブの打ち合いでした(一同笑)。

(宏美)
もっとすごいのを聞きたい人は23日にまた(一同笑)。

(宍戸)
親子対決二回戦。その時はもう乱闘(笑)。

(宏美)
場外乱闘(笑)。

(けえ子)
取っ組み合いになると思いますよ(笑)。

(宍戸)
そちらも是非。今日はどうもありがとうございました(拍手)。

以上

(要点採録/文責 入間川仁)

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