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【報告】劇場トーク「いま、私たちは何とたたかうのか」(Part.10)

劇場トークのご報告、第10弾をお届けします。

【7月27日(水)】
テーマ;「いま、私たちは何とたたかうのか」
ゲスト;池田賢市さん(中央大学文学部教員)、宍戸大裕(監督)

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(宍戸大裕)
今日はどうもありがとうございます。監督をしました宍戸大裕と申します。今日は中央大学の池田賢市先生と一緒に、これからお話を進めていきたいと思います。その前に、今日は黙祷から始めたいと思います。昨日の事件で、「津久井やまゆり園」で亡くなられた、男性9人、女性10人、負傷された26人の方々に、まず黙祷したいと思います。ご一緒にお願いします。黙祷。
…黙祷…
終わります。では少し、お話させてください。池田先生。

(池田賢市さん)
よろしくお願いします、池田です。

(宍戸大裕)
よろしくお願いします。「いま、私たちは何とたたかうのか」というテーマをつけて、いろんな教育現場のことをお話をしていきたいなと思っていたんですが、どうしても昨日の事件のことが頭を離れなくて。先ほども打ち合わせしてたんですけど、何から話していこうかという感じで…。
僕がすごく気になっているのが、被害にあった方の名前が出てこない、それから顔も出てこない、というのが、すごくショックを受けています。僕も「さやま園」という、東村山市にある知的障害者の入所施設で一年半ぐらい撮影をしてまして、大きな施設で百人規模で、「やまゆり園」と同じ1964年に出来たところなんです。だから、そこに暮らしている方々の顔と名前が思い浮かんできて、亡くなった方々の名前が出てこないというのがすごく苦しくなるな、って思うんです。どう考えたらいいのかなっていうところ、…どう思いますか、池田さん。

(池田)
そうですね、ともかく、「いない」ことにされている、ということですよね。あるいは、「いない」ことにしておいてくれ、ということでしょうか。家族の人も、「名前と顔を出してほしくない」ということもあると報道されてもいますね。ですから、身近な人からも、世間からも、「いない」ということになっている、ということですね。で、当然そういう状況に追い込まれていれば、世間の人は無関心になるし、意識しない、存在を意識しないですよね。だから、まったく人として見られていない、というか見ていない、そういう状況に繋がってきちゃうと思います。施設ってそもそもそういうところ、「収容」しちゃってるわけですもんね。「隔離」してるわけですから。

(宍戸)
海老原さんがよく言っていたのが、「私たち障害者がつらいのは、『分かったふりをされること』と『いないことにされること』だ」と。分けていくこと、分類していくことで、「その人のためになる、だから分ける」って言うんだけれども、どんどんその人たちと出会う機会を奪われているんですね。だから、出会わないから、勝手なことを思い込まされていく…。

(池田)
はい、本当にそこは感じていて、今日の映像を見ていて、たとえば、高校受験が一つの壁になっていることは、ずーっと昔から教育の分野で言われていることなんですよね。どうして「学ぶことは権利だ」って、こんなに世界中で言われているのに、なんでセレクトされなきゃいけないのか。本当に制度上大きな問題だと思っています。
でも、もっと大きな問題は、学校教育自身が、いろんな子どもたちを分類していってしまうということなんだと思います。典型的には、まず、年齢で分類しています。年齢と学年が一致していることが当たり前にされているし、男女で分類しているし、それに勉強できる子とできない子とか、ともかく「分けたい」っていう、そういう欲求が学校には渦巻いていると思います。
我々も日常生活の中で、たとえば65歳以上の人を「高齢者」っていうレッテルを貼ってしまいますけど、分けていくための基準を分ける側が持ち出して、グルーピングしてそこに名前を付けると、もう「そういうもの」になっちゃうんですよね。「高齢者」といわれる人の実際の生活がどうかとは関係なく、彼らは「高齢者」なんだからこうなんだ、っていう、そういう眼差しが固定化されちゃうし、それをみんなが共有していくっていうことですね。それでは、どんどん実態から離れていってしまうわけですよね。個人個人として「多様性を認めて」とかって、よく文科省も言っているのに、ですね。本当に多様であれば、何も分類する必要はないわけですし、分類なんかできないはずなんですけどね。そういう外側からの眼差しっていうふうにはならないと思うんです。
いろいろ今まで問題も語られてましたけど、分類していくっていうことの権力性、あるいは暴力性、みたいなものをすごく感じています。ただ一方で、分類っていうのは、近代科学が成り立つ上でとても重要なことなんですね。これとこれが同じで、これとこれが違うっていうことは、科学の大前提なんですよね。なので、「科学って暴力的だっんだ」というふうに私は思うし、権力性がある、と思っていますね。

(宍戸)
新居優太郎君、中学校の時はあまり他の生徒との関わりが無くてですね、いつも大人が三人くらい、彼の周りにはいて、看護師の先生やヘルパーの男性がいるので、なかなか子供が関わっていけないんですね。で、子供たちがようやく、彼と関わり始めた時に卒業になるんですけど、ようやく近づいてきた時にもう三年が終わって、という感じがするんですね。

(池田)
そうですね、国際的には「インクルーシブ」という言葉で呼ばれていますけれども、ともかく、いろんな人たちが関わっているってことがとても大事ですね。ただ、物理的に「一緒にいる」っていうことがイコール「インクルーシブ」ではないんだけれど、一緒にいなければ「インクルーシブ」にはならないので、前提条件ですね。ところが、一緒にいることの様々な問題点を指摘する人たちが出始めて、「一緒にいるけれど、勉強分かってるのか」とか、「やっぱりこの子は分けたほうが、この子のためなんじゃないか」って、そういう論法が出てきちゃうんですよね。「その子のために配慮してあげてるんだ」っていうふうにして、隔離とか分離を正当化していく論理が、やっぱり常に渦巻いていると思うわけです。そこと闘っていかないといけないと思います。

(宍戸)
施設って、…「やまゆり園」もそうですけど、僕が取材した「さやま園」もそうですけど、善意でその場所を作り、親が何とかこの子たちの居場所を作ろうとして作り…っていう、その「善意」の内容を、問わなければいけないと思うんですね。

(池田)
そう。たとえばある状況があって、「一緒にいるのはなかなか難しそうだ」って認識したのなら、「難しくしてしまったのは誰なのか」っていう視点を忘れちゃダメなんですけど、多くの人は、そこを忘れちゃう。「その子が問題だ」ってなってしまうんですよね。「車いすに乗っていて、大変だ」って言うけれど、なんで「大変」になっちゃうのか、っていうことですよ、問わなくちゃいけない点は。「大変にしてしまった環境があるんじゃないか」とか、そういうことを考えなくちゃいけないんじゃないか。
日本の教育政策の大きな問題は、問題を個人に還元しちゃう、個人化しちゃうんですよね。「その子が問題」、「他の子は問題がないんだ」っていうように。だから「その子が環境に合わせなければいけない」ということになっちゃって、学校自身とか社会自身が変わっていきましょうという発想がなかなか出てこない。で、それこそが政策の「狙い」だと思うんですよね。その個人に特化してしまって。なので、「支援」っていう名前のついた法律が多くなってると思います。「その子」を「支援」するのだと。社会が変わっていくとか、どんな状況があっても暮らしていけるためにはどんな条件が必要なのかということじゃなくて、その子が大変そうだから、なんかプラスアルファのことをやってあげて、助けてあげるっていう、そういうことばっかりに、予算が使われている、つまり排除に向けた予算ばかりが通っている感じがします。しかも、これが「善意」だたりするわけですよね。

(宍戸)
さっき先生の話で、「インクルーシブはその場にいるだけではインクルーシブにならない」と仰ってましたが、その辺は。

(池田)
やっぱり関係性が作られていかないと、インクルーシブになっていかないと思います。一緒にいるだけなら、範囲を広く言ってしまえば、みんなこの世の中に一緒にいますよ、という話になっちゃう。これでは状況はまったく変わらないわけです。関係が切れているのにただそこにいますっていうだけでは、逆に、差別的な関係が増長されてしまうと思います。

(宍戸)
新居君の受験の時に、最初に受けた高校は二回とも落ちたんですけど、その受験のスタイルっていうのがそもそも…。

(池田)
そう、映像を見ていて思いましたが、仮に試験問題の選択肢の部分がすべて正解でも、もしかしたら合格点に達していないかもしれないですよね。だから、まったく配慮されていない。「合理的配慮」っていう言葉がありますけれど、「配慮」っていう言葉、これは翻訳ですが、これ自体すごく問題があると思っています。
国連の障害者権利条約の批准によって障害者差別解消法が出来ましたけど、そこでのキータームである「合理的配慮」っていう言葉のもともとの原語は「アコモデーション(accommodation)」っていう英語なんですよ。で、それは「調整」っていう意味なんですよね。配慮っていう意味はないんですよ。「配慮」を英語にすると、たぶん「ケア(care)」になるかなと思います。で、「ケア」ってとても上から目線なんですよね。もともとは「調整」なので、「本人がどうしたいか」っていう意見を聞かないと調整にならないんですよね。こちらが用意できることはこれで、でも本人はこうしてほしいと言っている、じゃあどういうふうにしましょうか、って調整するのが、合理的配慮の本来の意味なんですよね。「合理的」は「理由がある」っていう意味なので、「リーズナブル・アコモデーション(reasonableaccommodation)」っていうんです。別に無理難題を言うのではなくて、ちゃんと理由があるということが大切なんです。つまり、一方的な思い込みで何かをするのではなくて、「こうしてほしい」という声をきちんと聴くことから調整は始まるわけです。
でも、先ほどの受験の様子を見ていると、優太郎君の意見は訊かれてないですよね。「どうすれば大丈夫ですか」とか、「こうすればいいんですか」とか。まったく調整になってないので、あれはもう配慮でもなんでもない、っていうことですね。このような「合理的配慮」に関する上から目線の誤解を解かないといけないと思います。あくまでも調整をしている、つまり、意見の交換が大前提です。それは子どもの権利条約にもある通り、「意見表明権」というのが常になきゃいけなくて、自分に関わることについては全部自分が意見を言える、というのが大前提です。その上で調整しましょう、ということです。

(宍戸)
調整をしていかなきゃいけない、それが教育現場に必要とされてる時に、むしろ逆行するような流れがいまあって、「道徳の教科化」っていうのが進められていますね。ひとつの価値観に子供たちを統制して、道徳に点数をつけると。

(池田)
そうですね。政府は「特定の価値に導くものではありません」と言うんだけれど、実態を見てみるとやっぱり特定の価値に導いているんですよ。ちょっと詳しくは言えませんけれど、いろんな資料を見ると明らかにそうですね。本当に自由な発想を認めるっていうことではないし、それに加えて、いま盛んに18歳投票権を契機に「主権者教育」が言われています。そこでは「政治的な中立」が大事だと言われているんですけれど、「中立な意見や見方」なんてあるはずがないですね、「意見」「見方」なんですから、一定の価値に基づいているに決まっています。
でも、「中立」が強調されると、結局それって現状肯定にしか着地しないんですよね。何も言わないし、「今のいろんな状況から一歩引いてみましょう」ってなっちゃうと、結局「今のままでいい」になってしまうんですよね。というか、そういうふうにしか言えなくなっちゃう。結局、道徳の強調と中立性の強調は現状肯定にしか着地しないわけです。その「現状」というのは、あきらかに差別を生み出し続けている社会なのですから、「差別社会でいいんだ」って言ってるのと同じだと思います。

(宍戸)
また事件に戻るんですけど、「障害者なんていなくなればいい」っていう犯人が言っていた言葉と、名前も出そうとしない社会が、すごく根底のところでは同じ価値を共有してしまってる気がして、それがなんか、もう、無性になんとかしたいなって思うんですけどね…。

(池田)
そうですね。で、それは恐らく、無自覚ですよね。自覚できてないので、本当に「内なる差別性」というか「暴力性」みたいなものと、本当に一人ひとりが闘っていかないといけない。ついうっかり、多分みんな、それこそ先ほど言った「善意」も含めてですね、そう考えてしまうし、そっちの方に引きずられちゃうと思うんですね。たぶん、どこかで魅力的に感じるんでしょうね。だから、まったく別の価値と別の生き方と別の社会の人間関係の作り方があります、っていうようなことを伝えていかないといけないと思います。
「別の関係の作り方」がまったく思い浮かばないんだと思うんですね。なので「それは所詮ユートピアだ」とか、「まぁ、そうは言ってもなかなかそれは理想論だ」っていうふうに片づけられてしまう。「そうではない」というアピールを、どんどんしていかないとまずいなと、個人的にも思っているところです。

(宍戸)
僕、相手を知るっていう時に、想像力で相手を理解しようとすることがとても大事だと思うんですけど、一方で、やっぱり「相手に聞く」っていうこともすごく大事だなと思っていて、海老原さんも色々なところで話をする時に、「障害者の方は誰かに何かしてほしいものですか?」と質問されている時があって、「いやそれは本人に聞けばいいと思うよ。何か助けが必要ですか?って聞けばいいと思う。本人が必要なら助けてください、必要ないなら大丈夫です、というそのやり取りがあれば、相手に一歩近づけるんじゃないかな」という風に仰ってて。

(池田)
本当にそうですよね。たとえば学校の先生になかには「自分は障害のことを医学的にも知識がないので分からないから何もできません」って言う人もいるけれども、「本人に聞けば?」って思います。それが一番簡単ですよね。何をしていいかわからないなら、訊けばいいじゃないですかっていうことですよね。それでも訊かないということなら、それは「何もしたくありません」と言っているのと同じになっちゃいますね。

(宍戸)
ありがとうございます。本当に今日、すごい短い時間で駆け足ですいません。もう…、上手くまとめられないんですけど、今日は皆さんとこの時間を共有できて、本当にうれしく思いました。本当にありがとうございました。(拍手)

(池田)
ありがとうございました。(拍手)

以上

(要点採録/文責 入間川仁)

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